コンドルセの陪審定理
コンドルセの陪審定理とは
コンドルセの陪審定理というのは、多数決に関する一つの法則です。
多数決というのは、選挙でも使われますし、議事の議決にも使われますが、要するに、大勢の人がみんなで物事を決めるための方法です。みんなの利害に影響するような役割の人を選ぶとか、みんなの利害に影響するようなルールを決めるとか。
そういう場合に、人でもルールでも同じですが、一番多くの人が選んだ選択肢を採用する、というのが多数決です。
多数決は、大勢で物事を決める際によく使われますが、なぜこんなによく使われるのでしょうか? この方法が最善だという保証はあるのでしょうか? もっといい方法があるのでは? といった疑問を持つ人も当然いるでしょう。
多数決については、主に社会選択理論という分野で研究されてきました。アローの不可能性定理とかセンのリベラルパラドックスといった言葉を聞いたことがある人もいると思います。
このような理論では、だいたい、人はみな自分が何を求めているかを知っている、ということを前提としていました(=選好/効用がわかっている)。でも、利害関係者がたくさんいる場合、みんなが同じことを求めているとは限りませんよね。利害が対立するとか、価値観自体か異なるといったことも珍しくありません。
そのような場合に、みんなが満足するような選択ができるか? できるとすればどのような方法で? ということが主に研究されてきたようです。そして結局、原理的にそのような選択はできないという皮肉が結論が出されたりもしました。
でも、コンドルセの陪審定理では、こういう理論とは前提がまったく違い、人はみな自分が何を求めているかよくわかってない、ということを前提としています。
ただし、だからといって何を選んでもよいというわけではなく、最善の選択(今風に言えば「正解」)は存在するとします。でも、その「正解」は実際に選んでみないとわからない、という設定です。
この方が現代人にとってはリアリティがあるんじゃないでしょうか?
現代はポピュリズムの時代だとよく言われますが、ポピュリズムとは要するに、自分でよかれと思って選んだ選択肢が、かえって自分の首を絞めるという現象ですから、人は自分が何を本当に求めているか実はわかってないのかも、ということになりますよね。
コンドルセさんというのは、フランス革命期の人です。つまり、ヨーロッパで古代ギリシア・ローマ以来久しぶりに共和政が台頭した時期の人です。
(余談ですが、コンドルセさんが亡くなったのはあの1794年です。つまり、恐怖政治やテルミドールでラボアジェをはじめとする大勢の人が処刑されたあの年です。ただし、死因は処刑ではなく自殺です。)
当時はサン・キュロットのような必ずしも教育程度の高くない人たちまで政治に参加させることを議論していた時期でしたから、コンドルセさんが、自分が何を求めているかよくわからない人が投票したらどうなるか? という問題設定をした理由もなんとなく想像がつきますよね。
その一方、コンドルセさんの問題設定では、個人同士の利己的な利害の対立、というものはあまり問題にしていません。個人の求めるものは常にみんなの求めるものと一致する、あるいは、個人は選択肢を選ぶ際に個人の利己的な利害よりも公共の福祉を優先する、ということを前提としています。言い換えれば、コンドルセさんの問題設定では、個人はルソーさんの言う一般意思を体現している、と言えるかもしれません。ただ、その「正解」をあらかじめ確実に知っている人は誰もいない、というだけです。
このような問題設定から、コンドルセさんが導き出した結論は、ちょっと意外なものでした。それは、何が「正解」かみんなよくわかってなくても、大勢で多数決をとれば、ほぼ確実に「正解」になる、というものです。これって結構すごくないですか?
肉体労働なら、大勢の人が協力するほど大きな仕事ができる、というのもわかります。一人では持ち上げられない重い物でも、大勢いれば持ち上げられる、とか。
でも、知的労働の場合、大勢いればいいってもんじゃねえよ、というのはわりと常識的な感覚でしょう。「船頭多くして船山に上る」なんて格言もありますし。(その逆の「三人寄れば文殊の知恵」という格言もありますが)。
でも、コンドルセさんによると、一人一人は何が「正解」かよくわかってなくても、大勢で多数決をとれば、だいたい「正解」になると言うんです。
そのカラクリを視覚化したのがこのアプレットです。
このアプレットは、スライダーを適当に操作しながらグラフがどう変化するかを観察するだけで、陪審定理のカラクリが直観的に理解できるように作られています。適当にいじっても壊れたりしないはずなので、自信のある人は、とりあえずいじってみてください。
見ただけじゃよくわからないという人も安心してください。以下アプレットの操作方法・グラフの見方を順を追って説明します。
操作方法
陪審定理をもう少し厳密に表現するとこうなります。
そして、この「個人が正しい選択をする確率」と「投票者数」が指定されれたときに、実際に「正しい選択」をする人の分布を示したのが上のグラフです。
これはみなさんが義務教育で習ってるはずのヒストグラムという奴で、横軸が全投票者中の「正しい選択」をした人の比率、縦軸が比率がそうなる確率を示しています。
たとえば、「個人が正しい選択をする確率」が 0.5 で、「投票者数」が 2 人だと、下のようなグラフになります。
個人が正しい選択をする確率が 5 割を超えていれば、投票者の数が増えれば増えるほど、多数決で正しい選択をする確率は限りなく 1 に近づくこれは要するに、次の 3 つの数値の関係を述べたものです。
- 投票者の数
- 個人が正しい選択をする確率
- 多数決で正しい選択をする確率
アイコン | 値 | 操作 |
▶ | 個人が正しい選択をする確率 | 上下にドラッグ |
● | 投票者数 | 左右にドラッグ |
グラフの見方
投票者数が2人の場合、正しい選択をした人の数は 0, 1, 2 人の三通りの可能性がありますが、上のグラフの三本の棒がそれぞれの場合に対応しています。
正しい選択をした人数が 0 人の場合、その比率は。これは 1 人目も 2 人目も誤った選択をしたということになるので、その確率はになります。
正しい選択をした人数が 1 人の場合、その比率は。これは 1 人目が正しい選択をし 2 人目が誤った選択をしたか、もしくは、1 人目が謝った選択をし 2 人目が正しい選択をしたということなので、その確率はになります。
正しい選択をした人数が 2 人の場合には、その比率は。これは 1 人目も 2 人目も誤った選択をしたということなので、その確率はになります。
これをまとめると以下のようになります。
この数値が上のグラフと対応していることを確認してみてください。
(確率に詳しい人のための注意:この分布は連続分布ではなく離散分布なので、棒の面積ではなく高さだけが確率に対応していることに注意してください! このアプレットでは棒の幅が投票者数に応じて狭くなったり広くなったりしますが、これは同じ範囲に違う数の棒を表示するための苦肉の策です。詳しい人にはかえってまぎらわしいかもしれませんがご容赦ください。正規分布近似でもほぼ同じ結論を出せることは重々承知ですが、このアプレットでは初学者にもわかりやすいように、あえて離散分布で表現することにこだわってみました。)
グラフの中央にある縦線は、過半数の比率 0.5 を示す線です。ですから、この線より右にある棒の高さを合計したものが、多数決で正しい選択肢が選ばれる確率、この線より左にある棒の高さを合計したものが、多数決で誤った選択肢が選ばれる確率です。
このアプレットでは、正しい選択肢が選ばれる場合に対応する棒を青色で、誤った選択肢が選ばれる場合に対応する棒を赤色で描画しています。
(0.5 ぴったりの場合は、多数決で正しい選択肢が選ばれたとみなしていますが、これは便宜的なルールで、反対に選ばれなかったとみなしたとしても、全体の結論は変わりません)。
この上のグラフの分布から計算された、「多数決で正しい選択をする確率」と「多数決で誤った選択をする確率」が、下のグラフにプロットされます。
つまり、下のグラフの青色の「多数決で正しい選択をする確率」の左下にある「●」が、上のグラフの過半数より右にある青色の棒の高さを合計した値(この場合は)の高さにプロットされ、赤色の「多数決で誤った選択をする確率」の左下にある「●」が、上のグラフの過半数より左にある赤色の棒の高さを合計した値(この場合は)の高さにプロットされます。
このプロットは、投票者数を変化させても軌跡として残るので、投票者数を変化させながら下半分のグラフを見れば、投票者数と多数決の結果との関係が一目でわかるようになっています。
人数 | 比率 | 確率 |
0 | 0 | 0.25 |
1 | 0.5 | 0.5 |
2 | 1 | 0.25 |
多数決がうまくいく仕組み
さて、アプレットの操作方法とグラフの見方がわかったところで、投票者数と多数決の結果の関係を具体的に見ていきましょう。
「個人が正しい選択をする確率」を 0.6 にし、投票者の数を少しだけ増やして 10 人にすると、グラフは下のようになります。
投票者の数が 10 人になったので、正しい選択をする人の数も 0~10 人になり、それに対応する 11 本の棒が描画されています。
それぞれの棒の高さは、上と同じように計算できますので、根性のある人は計算してみてください。
さてこの場合、先の分布と比べると、分布の山のてっぺんが中央より右に移動して、ちょうど 0.6 のところにきているのがわかりますね?
これは偶然ではなく、個人が正しい選択をする確率が 0.6 で投票者が 10 人いれば、正しい選択をする人の数は平均で 人になる、という常識的な法則に対応しています。
でも、だからといって、必ず 6 人になるわけではなくて、0~5 人になることも 7~10 人になることもあります。ただ、その確率は 6 人から離れるほど小さくなります。
つまり、分布のヒストグラムは、必ず「個人が正しい選択をする確率」と同じ比率を中心とする山形になります。これは重要なポイントなので忘れないでください。
では、さらに「投票者の数」を増やして、20 人にしてみましょう。グラフは下のようになります。
分布の山のてっぺんの位置はそのままですが、山の裾が短くなったことにお気づきでしょうか?
このように、投票者の数を増やすと、分布の山のてっぺんの位置はそのままで、裾だけが短くなるというのが、陪審定理のカラクリの肝です。
さらに投票者の数を 100 人にまで増やすと、こうなります。
裾が短くなりすぎて、過半数ラインよりも左側の赤色の部分がほとんどなくなり、ほぼ青色の部分だけになってしまいましたよね。
下のグラフにプロットされた、多数決で正しい/誤った選択をする確率も、ほぼ 1 と 0 になりました。
このように、投票者数を増やせば増やすほど分布の山の裾が短くなる現象は、大数の法則によるものです。この法則は有名なので、みなさんも名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。
要するに、コンドルセの陪審定理のカラクリとは、
個人が正しい選択をする確率が5割以上なら、平均すれば過半数の人が正しい選択をするが、確率的なゆらぎによって過半数を下回ることも結構ある。しかし、投票者の数が増えると、大数の法則が働いてゆらぎが小さくなり、ほぼ確実に過半数を超えるようになる。ということなのです。 5割以上ということは、5割を1%でも超えていればいいわけです。そんなやっと及第点ぐらいの凡人でも、たくさん集まって多数決をとれば、9割で正しい選択をする優等生よりも高い確率で正しい選択ができる、という数理的事実の意味は侮れません。
なぜうまくいかないことがあるのか
とは言っても、現実の多数決ですべて最善の選択ができているとも思えません。こんな定理まであるというのに、なぜ多数決がうまくいかないことがあるのでしょうか?
陪審定理の主張自体は、論理的必然なので、ほぼ否定の余地はありません。一定の前提条件から論理だけで導けるからこそ定理という名前がついているわけで、そこが物理法則や社会法則と違うところです。発表から200年以上もたっているのですから、純論理的な誤りがあれば、誰かが気づいているでしょう。
ですから、もしこの定理通りにならないとすれば、前提条件に現実の状況と合わないところがある、ということになります。
そのような現実との不一致として代表的なのは、以下のようなものです。
・運が悪い
身も蓋もありませんが、「確率が限りなく 1 に近づく」などと言っても、ぴったり 1 になるわけではないので、誤った選択肢の方が選ばれてしまう確率はゼロではありません。確率ゼロでない以上、運悪くたまたま誤った選択肢が選ばれることはあり得ます。宝くじだって当たる人がいるのと同じことです。
トランプ政権が誕生したときに、世論調査の予想が外れた、と喧伝されましたが、選挙予想のグルと呼ばれるネイト・シルバーによると、世論調査から予想されるトランプ当選の確率は 3 割程度であって、もちろん大きくはないが、あり得ないほど小さいわけでもなかったそうです。つまり、天気予報の降雨確率が
30% だったのに雨が降った程度の出来事だった、ということになります。
こういう小さい確率の出来事が起こってしまうリスクをどう扱うか、というのもなかなか興味深いテーマですが、ここでは他に譲ります。
・選択肢がない
多数決は、選択肢さえ用意できれば、その中からよりマシな選択肢を選べます。陪審定理がそれを保証してくれます。
でも、そもそも選択肢が存在しないときに、選択肢を生み出すことはできません。また、選択肢があったとしても、ロクな選択肢がない場合にもロクな選択はできません。
政治で言えば、そもそも法案が存在しない場合に多数決で法案を作ることはできないし、ロクな候補者が立候補していないときに優れた政治家を選ぶこともできません。
このような、そもそもマトモな法案や政治家が存在しないという問題も、すでにさんざ議論されているはずなので、他に譲ります。
・利己的な選択をしてしまう
これは冒頭で少し言及したように、陪審定理では利己的な利害対立(あるいは価値観の違い)を前提としていない、ということからくる問題です。
投票者が利己的な動機で選択肢を選べば、その選択は公共の福祉や一般意思とはかけ離れたものになる可能性があり、多数決をとったからと言って「正解」に収束する可能性は遠のきます。
この問題についても、利権政治とか地域エゴとか言って、すでにさんざ議論されてるはずなので、他に譲ります。
・投票者の数が足りない
陪審定理によると、投票者の数を増やせば増やすほど、多数決で正しい選択をする確率が 1
に近づくわけですが、逆に考えれば、投票者の数が少ないと、多数決で誤った選択をする可能性も結構ある、ということでもあります。
陪審定理は、投票者の数を「無限」に大きくすれば確率は 1 になることを教えてくれますが、現実には「無限」に大きくすることなどできないので、100 とか 10000 とか有限の範囲で大きくすることになります。その場合、確率はぴったり 1 にはならないわけですが、じゃあどの程度 1 に近づくか、ということは、この定理だけではまったくわかりません。
「投票者の数を無限に増やすと確率は限りなく 1 に近づく」という表現は、数学で「極限」を表すために使われる常套的な表現ですが、一つ欠点があります。それは、一口に「近づく」と言っても、実際にいろんな近づき方があって(=収束の速さ)、早く近づくこともあれば遅く近づくこともあるのに、全部一緒くたにされてしまう、ということです。
つまり、このような極限を記述する言い回しは、現象の静的・定性的な側面だけに着目し、動的・定量的な側面を隠してしまうところがあります(もちろん、それはそれで便利なところもあるから常套句になっているのですが)。そこで改めて、「近づき方」を定量的に表す方法を考えてみましょう。
この記事では今まで、分布の山の裾が短くなる、という漠然とした言葉で表現してきましたが、この「裾の長さ」とはなんでしょうか? この分布の裾は、一見短くなってるように見えますが、実は
0~1
の間に薄くひろがっています。ただ、端の方が極端に薄くなっているので、確率としてはほとんどゼロに近くなっているだけなのです。だとすると、いったいどこからどこまでが「裾」なのでしょうか?
こういう分布の裾の長さを表す尺度として、数学者は標準偏差というものを考えました。これは直感的な裾の長さと完全に一致するわけではありませんが、いろいろ便利な性質があります。
たとえば、分布が正規分布なら、平均から標準偏差±1 倍の範囲に分布全体の 68% が、標準偏差の±2 倍の範囲には分布全体の 95% が含まれることが数学的に証明されています。
このグラフの分布は、実は数学的には二項分布と呼ばれるものですが、二項分布は正規分布で近似できるので、標準偏差に関してはこれとほぼ同じことが成り立ちます。つまり、標準偏差がある意味この分布の山の裾の長さを表していると見なすことができます。
二項分布の標準偏差は、という公式で計算できます。陪審定理の場合、n は「投票者の数」に、p
は「個人が正しい選択をする確率」に相当します。ただし、二項分布では、横軸は正しい選択をした人の数そのものなんですが、上のグラフでは、それを投票者の数で割って、全投票者数中の正しい選択をした人の比率に直しています。
ですから、上のグラフの「山の裾の長さ」は、これをさらに n で割ったになります。この式を変形して n の項と p の項を分けますと、になります。
つまり、分布の「山の裾の長さ」は「投票者の数」の平方根に反比例する、ということになります。
もっと具体的に言うと、「山の裾の長さ」をにしようと思ったら、( なので)「投票者の数」を 100 倍に、「山の裾の長さ」をにしようと思ったら、(なので)「投票者の数」を
10000 倍にしなくてはならない、ということです。
つまり、投票者の数を 1 人から 10 人に増やせば、多数決で正しい選択をする確率は相当改善しますが、さらに同じぐらい改善しようと思ったら
20 人でなく 100 人まで増やさなければならず、さらに同じぐらい改善しようと思ったら 200 人でなく 10000
人まで増やさなくてはなりません。投票者の数は桁単位でガバッと増やさなくては効果がなく、チマチマ増やしてもあまり意味はない、というのは意外と重要なことです。
言い換えれば、誤差を 1 桁小さくしようと思ったら、サンプルサイズを 2 桁大きくしなくてはならない、ということです。これは実は、二項分布だけでなく正規分布をはじめとするいろんな確率分布に当てはまる法則で、世論調査の精度を大雑把に見積もったりするときにも役立つので、覚えておくとよいでしょう。
・独立性が足りない
これはちょっと分かりにくいかもしれませんが、結構重要な問題だと思います。
実は、上で説明したような、投票者の数が増えるとだんだんゆらぎが小さくなるというカラクリには、「独立性」という前提が潜んでいます。
「独立性」とは、出来事同士が互いの確率に影響を与えない、ということです。
たとえば、サイコロを 2 回振っても、1 回目に出た目は 2 回目に出た目に影響を与えないはずなので、サイコロを振るという出来事は互いに「独立」だと言えます。
逆に、なんでもいいですが、たとえば風邪を引けば会社や学校を休む人が多くなるはずなので、風邪をひくという出来事と欠席するという出来事は互いに「独立」ではありません。
「独立性」は数学的には、条件付き確率を使って定義されます。
たとえば、A という出来事と B という出来事が単独で起こる確率がどちらも 9 割の場合、A と B が同時に起こる確率がになるなら、A と B は互いに独立です。
逆に、A が起こったときには必ず B が起こるとすると、A と B が同時に起こる確率はでこれより大きくなりますし、A が起こったときに B が起こる確率が8割なら、A と B が同時に起こる確率はでこれより小さくなります。
このような場合には A と B は独立ではありません。
出来事の間に独立性がないと、大数の法則が成り立たなくなるので、上で説明した陪審定理のカラクリも成り立たなくなってしまいます。
では、陪審定理で想定しているような状況において、投票者の選択が互いに独立である、とはいったいどういうことなのでしょうか?
サイコロの場合、そもそも出る目は人間の意志によって操作できないので、互いに独立であると考えるのは自然なことです。でも、投票の場合には、投票者の意志は情報にも影響されますし、環境とか体調とか感情とかいろんなものに影響されます。特に情報や環境は多くの人に共通しています。
それで投票者の選択が互いに独立なんてことがありえるのでしょうか?
選挙をイメージすると、いろんな影響が複雑でわかりにくいので、仮に「正しい選択肢」を当てる試験問題のようなものをイメージしてみましょう。
一人一人の生徒が正しい背景知識と正しい解法に基づいて自力で答えを出していれば、それをどこから教わろうが、それによって正解率自体が大きく変わることはないでしょう。どこから教わっても、「正解」自体が変わるわけではないからです。
でも、もし特定の教科書や先生だけが、間違った解答や解法を教えていたらどうでしょう。それを鵜呑みにした生徒のかなりの割合が、同じように誤った答えを選ぶでしょう。
あるいはもっと極端に、一部の生徒がカンニングしていて、そのカンペ自体が間違っていたとしたらどうでしょう? それを鵜呑みにした生徒はすべて、同じように誤った答えを選ぶでしょう。
そのような場合、正しい答えを選ぶ確率は、互いに「独立」にはならないはずです。
選挙でも同じことです。たとえば組織票のように、組織が一方的に投票先を決めて押し付けている場合、それが何万票・何億票あろうが、多数決の信頼性を高める陪審定理のカラクリにはまったく貢献しません。1票と同じことです。
あるいは、現代のSNSのように、特定のインフルエンサーに影響されて多くの人が投票した場合もそうです。インフルエンサーを鵜呑みにする度合いが大きければ大きいほど、投票者の選択の独立性は低くなり、多数決の信頼性に貢献する度合いも低くなるでしょう。
まとめ
実は、陪審定理をそのまま現実の状況に適用できることは、そう多くありません。でも、この定理は一つの理念モデルとしての意味を持っており、政治制度や倫理を考える際に、いろんなヒントを与えてくれます。
たとえば、キャス・サンスティーン氏などは、自説の傍証としてしばしば陪審定理を援用しています("Infotopia: How Many Minds Produce Knowledge"、"A Constitution of Many Minds: Why the Founding Document Doesn't Mean What It Meant Before"、"Going to Extremes: How Like Minds Unite and Divide" など)。
個人的に重要だと思っているのは、最後に紹介した独立性の問題です。
現代ではどこの国でも政治的両極化が激しくなっており、フェイクニュースの問題などもあって、政治的対話自体が難しくなっていると言われています。
そのような状況において、他人に政治的な影響を与えることの意味、というものを一人一人が考え直す時期にきていると思います。
当たり前ですが、優秀な人ほど主観的には自分が正しいと思っており、自分が正しいと信じることを他人に押し付けて何が悪いと思っていたりします。
ですが、主観的な正しさは客観的な正しさを保証しませんし、陪審定理によれば、9割の確率で正しい選択をする優秀な人でも、5割そこそこでしか正しい選択ができない凡人の多数決より劣るのです。さらに、自分の意見の押し付けは、独立性を減らして多数決の信頼性を低下させてしまいます。
仮に他人に押し付けた選択が、真の「正解」だったとしても、それはその一回限りの偶然でしかなく、制度的に保証された結果ではありません。
極端に言えば、独裁者がたまたまいい政治をしたようなもので、運命の気まぐれでしかないのです。
このように「正解」を押し付けるだけが、正しい選択を促す方法ではありません。試験問題の例でもわかるように、正しい背景知識を広め、正しい問題の解き方を広め、一人一人が自力で「正解」を見つけられるようにしても、正しい選択が行われる確率を高めることができます。
しかもそれは一回限りの偶然ではなく、より制度的な強い基盤として根付くはずです
参考文献
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- 「多数決を疑う 社会的選択理論とは何か」坂井豊貴
- "Democratic Reason: Politics, Collective Intelligence, and the Rule of the Many", Hélène Landemore